先生、吐きそうです

思考や有り様を切り売りします

続けるコトやら何やら、弾力性なども少し

 こんばんは、何だかんだで久しぶりだなという感じです。1度真面目なエントリをやってしまうとその後の切り替えに大きな影響を与えるということが明らかになりました。そんな訳で、今回は習慣づけて何かをやることと変化に適応することは困難だなみたいな話です。モチベーションを保つ話は、以前にやった?ので動機付けなんてキレイな話題はやめて、人生つらいこともあるけどやっていくしかないよねってことです。
 今回は文の推敲やら読みやすさ、論理性みたいのは完全に無視です。雑な結論からいえば、今回はコレがそうです。どんだけダメでも気持ち悪い感じがあっても(これはフェルトセンスですが、そう言い切ってしまうと誤りです。)やっていくことをやめるというのが習慣を途絶えさせてしまうキッカケになるのではないでしょうか?
 よく、疲れているのなら1回休んでからとか、調子が整ってから、とかありますが優しいから受け入れたくなりますが、それは罠でやり続けなければ終結してしまうと思います。うるせぇ!それはてめぇの感想だろ!黙って寝とけ迷惑だから!みたいな意見もあり、それもそれで一理あるんですが、今回それは無視します。
 まぁ、“1日休むと自分にわかり、2日休むと仲間にわかり、3日休むと観客にわかる。”というようなバレエの方?の言葉もありますし、(ここで引用先を調べる体力がないあたりやはり今回のエントリを表現しているのでは?)研鑽していきたいと考えているようなことはやはり、1日たりとも離れては、それどころか片時も離れてはいけない時期が人間にはあるんじゃないかなと思います。
 また、それが大きな危機に直面したときにその状況に適応するための力になるのではとも思います。ここで言う適応は危機に適切に対処し、それを乗り越えていくという意味です。なぜ急にそんな雑な展開をしていくのかと問われれば、それは自分自身に大きな危機が起こりうるかもしれないからです。あまり具体的にすると言霊とやらが干渉してきて現実になるかもしれないので詳しいことへの言及は避けますが、言霊なんてものがなくても曖昧にしておけばはっきりと可能性を見ずに済む、みたいな話でもあります。しかし、世の中にはカタルシスみたいなものもあり、敢えて言葉にしにくい感情を表現してみることで不安が解消されるという話もあります。(ここらへんはフォーカシングとかと類似した点があるのではなどと思いつつも、知識不足なために言及が憚られています。フェルトセンス!フェルトセンス!)
 そこで、話は脱線しまくりですが、危機があったとしてもそれを適応的にやっていくために危機を習慣に組み込んでいくことで日常に戻っていくなんてこともあるのではないかな、それってレジリエンスかな、なんて的外れなことを考えている状況です。変化への対応ではなく、危機への対応になってしまいました。しかし、危機も大きく見れば変化ですし、危機と認知していても実際のところ変化レベルでの出来事だという指摘も聞こえてきているので(幻聴)よしとしましょう。
 つまり、習慣が途切れそうになっていることと危機が恐ろしいという話でした。そして、習慣をやっていくために筋トレをして身体面からやる気を引き上げるドーピングが技術としてあるのですが、安易に変化を求めてしまい今は膝が痛いような気がします。やはり、重さはもう少し継続した方がよかったなというところで終わりです。
 本日は本当にありがとうございました。