エディプスコンプレックス
ここ最近は落ち込むことが多く、常に気分は低空飛行であった。落ち込む理由としては、概ね自分が原因で、また時期柄も影響しているので、どうにかなるまでやり過ごすしかない。それは分かっていてもしんどいものはしんどいし、日々のパフォーマンスは落ちていく一方だ。こんな文章を書いている今だって、本来やるべきことを放り出している最中だ。これがまた落ち込みに繋がる悪循環を加速させていくのだが、恐らく自分にとって必要なことなのだとも思う。
なぜこのタイミングでこんな文章を書いているかといえば、とある随筆を読んだからである。私の場合、文章が書きたくなる時は大体、人の文章に刺激を受けた時である。きっと、良い文章だ、よく分からないが気持ちが動いた、自分も何か書いてやろう、というしょうもない過程を踏んでいる。そして、あわよくば人に良い文章だと思ってもらいたいという欲も働いているのだと思う。我ながら単純で欲深く嫌になるのだが、それでもそんな自分を受け入れてやるしかない。「受け入れてやる」という表現に、自分を受け入れられていない気持ちが表れてしまっているが、しょうがない、そんな人間なのだ。このように開き直る自分も嫌な自分がおり、ままならないと感じるが、あまりそんなことばかり言っていても本題に入らないのでここらで話題を変えようと思う。
漫画家の市川春子さんの随筆を読んだ。ここ一年くらい注目している漫画に『宝石の国』というものがある。その作者の方の随筆が『群像』に掲載されていたという情報を2ヵ月ほど前に知り、読もう読もうと今日まで来てしまっていた。もともとメディアの露出が少ない方という印象(メディア露出の多い漫画家とは?)で、SNSも公式ではされていないため、どのような人なのか以前から知りたかったのである。随筆の内容としては、趣味の「石」の収集ことについてであった。そのときにひとつ昔のことを思い出した。
私も小学生のころは、石を集めるのが好きだった。はじめは、石そのものが好きというよりは、武器になりそうな石、見ているTVアニメに登場する兵器に似た石が好きだったのだと思う。しかし、石の持つ価値は年齢によって変化していき、最終的には、綺麗な石が好きになっていった。そんななかで印象深い出来事が起こる。
その日は校外学習で、古墳の遺跡群を見学していた。見学というからには見て回るだけなのだろうと高をくくっていたが、実際に古墳を体験しようということで、古墳の登ることとなった。小学生の私は太っていたこともあって、体を動かすことに抵抗があり、嫌な気分で登っていたのだが、その道の途中に光る何かを見つけた。それは白くきらきらと光る石であった。拾ってよく見てみると、薄く平べったいそれが装飾品のように思われた。その後、引率の教員にそれを見せると、意味ありげな笑みを浮かべながらではあるが、「それはもしかしたら、古墳の装飾品のひとつかもね。」と言ったので、当時純朴だった私はすっかり舞い上がり、大事に家まで持って帰ったのである。
また、その後に似たようなでき事があった。その時は校外学習の一環で、地域の公園を清掃していた。その日は病院に行く用事があり、その公園から直接下校する予定であった。母が迎えに来て、さあ帰ろうという時に、また白く光る石を見つけたのだ。しかも、今回の石は長方形の大きなもので、この前みつけたものより透明度が高かった。喜び勇んで拾いに走ったはいいが、よく見ると少し鳥の糞がかかっていた。その一瞬で様々な思いが頭の中を駆け巡った。単純に汚いと思う気持ち、母の前でこんなものを拾ったら怒られる、でもこんな大きくて透明度があるものは本当に宝石かもしれない、病院の予約の時間も迫っている…。しかし、そのような思いがある一方で、手は自然とその石を拾っていた。今になって考えれば、非常に不衛生でありえないも行動ではあったが、それをさせるだけの価値がそのときにはたしかにあったのだと思う。
そして、その二つの石を大事に保管していたある日のこと、何がきっかけかは忘れてしまったが、両親にその石たちを見せることがあった。自分としては、自慢の宝石を見せるような気持ちであったが、両親の反応は期待を裏切りあっさりとしたものであった。ガラクタだが子どもが大事そうに持っているので、本人を傷つけないように対応している、というような雰囲気で私としては不満であった。それどころか父は、「ちょっと貸してみ。」というと、部屋の照明を消して、勢いよくその二つの石をぶつけ始めたではないか。宝物が勢いよくぶつけられるというあまりのことに、一瞬何が起きているのか理解できなかったが、見てみると小さな火花が散っていた。父は自慢げに「これは石英で、火打ち石に使えるんだよ。」と言って石たちを返してくれたが、ぶつけた所は削れてしまっており、私はそれどころではなかった。もちろん削れてしまったこともショックではあった。しかし、それ以上に、自分が大事にしていた宝石は、石英という名前で火打ち石ほどの価値しかないのだと知らされたことのほうが衝撃だった。
そんなことをこの随筆を読みつつ思い出していたが、今となってはその石がどこにあるのかも分からない。確かにあの時までは宝物で、火打ち石になったあとも大切にしようと思っていたはずなのだが…
エディプスコンプレックスとは、ギリシャ神話に基づきフロイトが叙述した防衛機制の一種である。3~4歳頃の子どもが、異性の親に愛情を向ける一方で、同性の親には敵意を向けるが、罰を受けるのではないかという不安(去勢不安)、同性の親を排除することへの罪悪感を抱くなど様々な情緒が入り混じるというものである。(後日やっていきの気持ちがあれば加筆修正あります。←8/24修正しました。)
アイデンティティ-自我同一性-
ご無沙汰です。みなさんはご無沙汰ですか?最早放置したほうがネット遺産(素人の放置されたブログなどこの世には星の数あるため、遺産と呼ばれるほどの価値があるかは不明ですが、オリンピック委員会?も『是非、レガシーを!』と主張していたので、私も声高に主張していこうと強く思われたためであります。)としての価値が発生するのでは?というような気持ちが生じる程放置していましたが、諸事情により文章を書く機会が失われたため、今頃になって再開した次第であります。
状況としては依然として芳しくなく、生きるということについて深く考えさせられますが、幸いにも私は恵まれた環境にあるため再び挑戦する機会を得られました。その周囲の環境に感謝を抱きつつも以前と変わらない状況にやられています。
アイデンティティとは、エリクソンによれば過去と現在において自分とは同じ一貫した自分であるという連続性、他者とは代替不可能な固有な存在であるという斉一性、何らかの社会集団に所属し、その集団に受け入れられている感覚をもつ帰属性の3つの基準によって定義している。これまでは、青年期における発達課題とされていたが、中年期においてもさまざまな身体的、心理的、社会的な変化によってアイデンティティの再構築が求められることから、人生全般関わる課題ともいえる。
内的作業モデル ‐この前書いた下書きは消えました。‐
お久しぶりです、2ヶ月ぶりです。皆さんは2ヶ月ぶりですか?
はじめに悲しい報告があります。
実は今日も今日とてブログを更新している場合ではありません。やるべきことは依然として山積しており、3日前には準備不足により痛い目を見たばかりです。
過去は過去として受容して、それからをいかに行動するのか。ということが肝要で、つまるところやっていくしかないです。
それはそれとして、同時並行して新たな問題が発生しました。齲蝕です。そうです、俗に言うところの虫歯です。(虫歯のことを齲蝕と呼ぶのは今回得られた知見です。)
もはや、定型であるところの「歯磨きはしていたのですが…」という言い訳をしたいのですが、唐突に歯が欠け、なかなかの穴が開いたため黙ることにしました。痛みもなく、患部の変色も確認されないため、噛み締めによる破損が提案されましたが、怖すぎて専門家に意見を仰ぐこととなりました。
今回の話のオチを先に言ってしまうと、歯医者はまだ行けてないのですが、いろいろと重なりすぎて無理になってしまい、こういった文を書いております。文を書くことが恐ろしくなって、リハビリ的に書いているという側面もあるのですが…
内的作業モデルとは、乳児期の初期段階で養育者の関わり合いから獲得される認知的枠組みのことである。養育者との相互交流により形成され、依存対象や対人場面におけるパターンや関わり方のビジョンとなる。